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取水口
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① 北楯大堰取水口

                慶長6年(1601年)山形藩主最上義光の命によりに狩川清川立谷沢を守る為に赴任

                してきてその地に立った北舘大学助利長公が目にしたものは荒廃した広大な未開拓の

                芦谷地でありました。そこで耕作している田は山麓からのわずかな沢水を利用したり

                最上川の氾濫でできた池沼の水を利用していましたが水量が限られており

                田の耕作面積を増やすこともできませんでした。又雨量が少なければ日照りで

                枯れてしまったりと米作りは大変難儀しており零細農家が圧倒的に多かったようです。

                なぜ近くに大きな最上川があるのにその水を利用できなかったのか、それは最上川の

                川床が平野部より低い為、引水が不可能なのでした。京田川の川床はさらに低い為

                こちらも引水はできなかったのです。大学公は難儀している民の為なんとかこの荒地に

                水路を引かねばならないと強い意を決して来る日も来る日も水路探しに奔走しました

                人々から水馬鹿などと言われながら調査に調査を重ね10年程経ち、ようやく

                立谷沢川からの引水が可能な事がわかったのでした。しかし大変な大工事となる為、

                藩主最上義光公や重臣たちを説得する為に細部にわたり綿密な計画書を作成し請願書を

                提出しました。大工事で又大変な難工事が予想された為多くの重臣たちは反対でしたが

                藤嶋城主新関因幡守は大学公を擁護しその計画の正確さと堰開削後の膨大な開田で

                藩の財政に大きな貢献をもたらす事の確実性を強く後押ししました。

                義光公も大学公の民の為に命をかけた請願に心を動かされ遂に許可を出したのでした。

               (平成18年には農水省主催の疏水百選に庄内地方では唯一北楯大堰が認定されました)

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欄干に北楯堰橋とあり此処から堰が流れています
立谷沢川の方から見た北楯大堰取水口
御諸皇子神社
② 御諸皇子神社

御諸皇子神社の古い絵図には船玉神社西の小高い所に松の大木2本を慶長6年(1601年)山形藩主最上義光の命によりに狩川清川立谷沢を守る為に赴任木柵で囲んだ御陵があります。これは御祭神の王子様を裏山の麓に葬り王子塚とよんでいた所なのですが、そこが北楯大堰開削にあたり工事予定地にはいった為、この王子塚を山上に移したとされています。しかし現在はその場所を確認することは出来ません。御諸皇子神社は源義経が武蔵坊弁慶一行を従え旅の一夜を明かした事で知られており鎌倉時代の「義経記」には五所王子とその名があるので、当時すでにそこに存したということが判りますが創建年は不明です。御祭神は御諸別命(みむろわけのみこと)であります。清川は羽黒山への登山口であり此処で禊ぎをし、羽黒山参詣にこの山道を伝って向かったようです。又、社殿右側に稲荷神社があり覆屋に納められているのは旧本殿で、まさに桃山時代の貴重な建物がここに現存しております。現社殿は寛政12年(1800年)に建て替えられたものです。この社殿の特徴は神社でありながら仏式の様式を呈していることです。その昔は神仏混合であった事の証であり、

左記の写真に見るように他の神社には見られない文様のある柱がつかわれております。又社殿のなかには釣り鐘もあるのです。

御所皇子神社_edited.png
御所皇子神社_edited.png
御所皇子神社_edited.png

仁王門の左右に仏法の守護神である金剛力士立像が納められている事でも判ります。神社の阿吽の狛犬に類似するこの仁王像、右側は阿形蜜迹(みっしゃく)金剛力士、左側は吽形那羅延(ならえん)金剛力士であります。作者は酒田市中町の仏師伊藤権吉であり宝暦11年(1761年)完成いたしました。昭和五十二年六月七日には町指定有形文化財となりました宮司正木氏によりますと像についている白い点々は参詣者が体の具合の悪い痛む所に紙を貼り付けて病気平癒の祈願をしたものであるということです。

御諸皇子神社社殿

       仁 王 門 (隋 神 門)  

この門の左右に金剛力士像が安置されている 

金剛力士像(町指定文化財)

神社の近くに三社大神と記された石塔があります。王子が逝った時に、その随臣三人も殉死したため土人が三社様(さんじゃさま)という社を建ててその霊を祀ったのが三社神社であるといわれております以前は斎藤半九郎碑境内にありましたが大堰改修工事の折,移し変えられて現在は③で説明している殉難十六夫慰霊塔の右側に建っております​。

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三 社 大 神
③ 殉難十六夫慰霊塔

山際の難所も懸命なる作業が続けられ着々と掘り進んで丁度清川の御諸皇子神社の下まで来た時でありました。この日は如何なる悪日なのか神社の山下での作業が今や半ばの頃突然崖が崩れて大轟音と共に大岩石や土砂が雪崩の如く落下して働いていた十六人の人夫は、あっという間もなく惨死するという大堰開削工事最大の事故でありました。人夫たちは恐怖で怖気づき大学公は七日間の祈祷修行し ようやくそこでの工事を成就しました余談になりますが北楯家の子孫はその故人の冥福を祈り以来16代まで家中の祝事を慎んでおります

十六_edited.png
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④ 青鞍之淵遺跡碑
青鞍_edited.png
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いよいよ本工事の第一の難所清川の堰台第一歩の所の工事が始められました。 此処は先にも義光公の御前にて論議の争点と成った処、最上川の激流は山越の絶壁を噛み、深淵渦を巻き物凄い状態をなしたる所でありました。此処に堰台を築くには先ず第一にこの淵を埋めなければならず、それが出来るか否かが実に工事の成功か不成功かの大きな岐れ路でありました。数多の人夫共は各奉行指揮の下に岩を崩し土石を搬び次々に投入れて之を埋め堰台を築いても終日の労苦は一夜の中に破壊され無駄になる有様で幾日繰返しても同じ状態でありました。暫くすること五日あまりに及んだが埋まる気配少しも見えず淵は依然として渦巻き溢れて最早永久に埋める事は不可能と思われたのです。大學様始め各奉行の面々も何れも淵を見つめるばかりでなす術もありませんでした。沈痛な面持ちで吐息を漏らし苦慮する大學様は傍らの目にも痛々しく映りました。志村伊豆守光惟に責任追及され切腹を決意するほど追い詰められたが他の奉行たちになだめられ自らも工事半ばの為気を取り直し再び一同意気を奮起して仕事に取り掛かったが魔の淵は依然として埋まる気色は少しも見えなかったのです。進退まったく窮まり皆の目にも早や之までかと思った時、意を決した大學様は己の馬から武士にとっては刀の次に大切な秘蔵の青貝摺の鞍を解き之に大石を結びつけ日頃崇敬怠らざる八幡熊野の諸神(八幡は狩川八幡神社、熊野は狩川東興野の熊野神社)を念じ必死の形相物凄く「何卒この淵を埋めさせ給え」と神に念じて鐙共々逆巻く深淵の真只中にザンブと投げ込んだ処神も受納ましましたかアラ不思議今まで荒狂い渦巻立っていた水面が忽ち油を流した如く静かに澄んで水も引いたように見えました。人々は之を見て神々の御加護に他ならないと元気を盛り返し昼夜を厭わず必死の作業を続け遂にこの難所を埋めることが出来ました。以後再び崩壊することはありませんでした。後世に此処を青鞍之淵と呼び此の辺一体を堰台と称し其の頃の難工事をしのぶ記念語として現今に至ります。

⑤ 熊 野 神 社
⑤ 熊 野 神 社
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狩川東興野に鎮座されている神社で、北舘神社史にはこの熊野大権現は先の狩川城主斎藤新九朗が紀州より勧請して尊信したものと記されております。大学公は日頃から信心しており、もちろん工事の大願成就の祈願したのは言うまでもありません。

慶長十七年北楯大堰が完成し、それから六年後の元和四年に大堰成就の報として大学公はこの神社社殿の改修を行い、そして大堰工事の始業時に使用していた鰐口を奉納いたしました。

直径25cm厚さ9.5cm、割れ目があり修理の跡がみられる。鉄製である。鰐口とは神社や仏閣の堂前につるし、其の前に布や麻糸で編んだ綱をつるし下げ参詣者が綱を振り動かして打ち鳴らすものである。

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⑥ 廣 田 神 社
廣田神社_edited.png
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偉業を成し遂げた大學様は子の助次郎のもとで余生を送っていましたが寛永二年(1625年)に病に倒れ七月二十日にご逝去されました。享年七十八歳でありました。遺言により狩川の城址館山の麓の山居に於いて荼毘に附されました。其の地に冥福を祈る為寛永十三年地蔵尊を建立しましたが明治四年に祀り換えて此処を廣田神社としました。

社殿の後方に地蔵尊が祭られておりますが、左の写真の右側が当初の地蔵尊であり左側が後世に建てられたものです。現在も地蔵尊として安産祈願に参詣する人が多く創建三百七十余年改築二百七十余年になっております。

⑦ 瀧 澤 神 社
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大堰開削が非常に難工事を極め日夜苦心に苦心を重ねていた或る日、いつものように三所大権現並びに狩川八幡宮に熱心に祈願していた時遥か舘山城より東南の空に夜な夜な天燈の降下する所あり白く光り輝くものが見える。大學様は不思議な事もあるものと山を掻き分け行ってみたところ、数丈の滝が崖から流れ落ちる所に畏れ多くも不動明王が爛々と輝く炎の中に此方を向いて厳然と鎮座ましまして居られ、余りの奇蹟にに大學様は思わず伏し拝みました。「南無不動明王、何卒大願成就させ給え」と熱心に祈願を込めて帰城しました。このことあって益々信心固くその後も日夜信仰を怠らず、其の甲斐あってかその後まもなく年来の目的を果す事が出来ましたので大堰完成後その時の場所に不動堂を還流しようと工事にかかりましたが途中それを果さず世を去った為、子の助次郎が父の遺志を受け継いで寛永三年七月二十日の父の一周忌に一小堂を建立しました。それが現在の瀧澤神社であり、この不動堂を祀り換えたものであるといわれております。

同社には助次郎の奉納した三尊掛仏並びに承応四年に奉納した大堰絵図(北楯大堰実測図)が社宝として現存しております。

同神社脇の石碑には大學様が大堰工事の祈願した旨を記しています​。

⑧ 北舘大学公銅像
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郷土開発の祖 北舘大學利長公の偉業謹仰と恩沢報謝の念から銅像建立を発起、奉賛会(奉賛会長渡部利右衛門氏)を結成し会員の皆様からのご寄付にて製作されたものです。製作者は米沢市出身で当時国画会委員、元日本美術院同人の桜井祐一氏であります。

狩川城址で現在の楯山公園内に昭和四十七年竣工、昭和四十八年新社殿御遷座祭にあわせてこの銅像の除幕式もとり行われました。

台座を含めて高さ四メートルあり、頭には頭巾をかぶっています。この頭巾は山形藩主最上義光公が「川風は寒かろうから頭巾を進ぜる」と大堰工事の大学公の功を讃え老齢の身体を気遣った温情ある書状と共に賜ったものでした。

※左の絵は頭巾を冠って堰を見ている姿で義光公の書状も記されています。

慈愛と偉風に満ちた大学公は広大な庄内平野を一望に眺めながら、いつも民の幸せを願い見守っているのです

⑨ 楯 山 公 園
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現在桜の名所になっている楯山公園は狩川(舘山)城址で又旧北舘神社跡地でもあります。その昔、この辺りは北畠顕家の領地であり奥羽白河城主結城氏の武将で斎藤新九郎が建武二年(1332年)に、築城したといわれております。

慶長五年(1600年)に出羽関が原の合戦の功により此の辺を含めた庄内三郡が最上義光領になり大学公は翌年の慶長六年(1601年)に、この地狩川城に赴任してきたのでした。左記の図は山形県教育委員会発刊の『山形中世城館遺跡調査報告書』に記載されている狩川城略測図であります。

現在の楯山公園の地形には左記の図のように当時の面影がそこ此処に残っており、いにしえに思いを馳せる事が出来ます。

現在は、本丸辺りが旧北舘神社境内跡でその前方に大學公の銅像が建っており、そこは美田の庄内平野が一望できいつも見守っておられる御姿が私たちに何ともいえない安心感を与えています。その右側一帯がグラウンドゴルフ場になっています。

公園には旧国道から入る車道があります。又、中央(左記図右端)には百数十段ある石段で登る事もでき、登り口には赤い欄干の橋があります。その橋の下を滔々と流れているのが三ケ沢方面に通じている北楯大堰です。

 

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旧北舘神社跡
旧北舘神社本殿跡
旧北舘神社
楯山公園石段登り口を流れる北楯大堰
⑩ 北 舘 神 社
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今から約400年前に山形城主最上義光の家臣であった北舘大学助利長公は狩川に赴任した時、この地の水利の悪い荒地に難儀している民に心を痛め何とか民の暮らしを豊かにする為にという思いから十余年の歳月をかけて水利計画を立て、義光公に水利事業の必要性を進言しました。大工事になる為重臣たちからは反対もされましたが大学公の民の為に命をかけた真剣さに心を打たれた義光公の強力な支援により、遂に立谷沢川から水を引き入れ清川、狩川、余目以北までにも通ずる北楯大堰を完成させました。この大堰の流域には次々と集落ができ、現在の豊かな庄内平野の基となったのでした。この大事業を成し遂げた大学公を流域の民たちが相図り、感謝の意を後々まで伝えるよう北舘水神社を建立しました。現在は多くの崇敬者の皆様の熱意により別表神社北舘神社として庄内町狩川笠山に鎮座し毎年五穀豊穣の祈願祭と新穀感謝祭を斉行しております。

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​⑪ 見 龍 寺(大学公菩提所)
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大正天皇御即位の大典に際し、  その功績に従五位に叙される
北舘大學助利長公の墓
大椿山 見龍寺
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大学公の御遺骨は菩提所大椿山見龍寺に葬られました。

法号は大椿院殿山翁良公大居士と最上院殿安庭慶公大居士とありますが大椿院は10月20日最上院は7月20日とある為、大学公は最上院であろと思われます。古資料では土人によると大椿院が大学公という説もありますいずれかが父兵部少輔、又他資料には水死した嫡男のものとの説もあります。

現在の墓所は大正七年に改造された為昔の面影は郷土研究家が保管してあった左の写真の見取図から想像できます。

墓は五輪の塔、三方には土堤が巡らされており中は大き目の玉石が敷き詰められたもので、墓の両脇にはそれぞれ大学公の父の兵部少輔と嫡男虎之助のものといわれている墓石があります。

北舘大學は山形城主最上義光の家臣で慶長六年八月狩川城主となり狩川清川立谷沢の三千石を賜る慶長十六年大學は地域の水不足を解消し広大な原野を開発すべく立谷沢川より疏水の計画を立て最上公の許可を得た  翌十七年三月着工領民七千人工事に従事したが思いの外難関を極めた此処に於いて最上候は由利飽海田川櫛引の諸郡より人夫役六千人を応援させ幾多の困難を克服し不屈不撓の大學の熱誠と農民の協力により同年七月三ケ沢余目長沼三方面に分かれる延々たる灌漑溝は見事に完成し開村八十八ケ村に及んだ寛永二年七月二十日大學病没し狩川見龍寺に葬る安永七年四月村人大學の遺徳をしのび北舘神社を創建す今や恩恵に浴する灌漑田地五千町歩に及び昭和二十七年四月一日山形県指定史跡となる茲に偉大なる功績を讃え碑に刻して永く後世に伝えんと欲する

昭和四十一年十二月  最上川土地改良区

 

⑫ 八 幡 神 社
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八幡神社 鳥居
八幡神社境内に建立された北舘水神社
大学公の木像
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八幡神社社殿
八幡神社側を流れる北楯大堰

安永七年七月、大学公の遺徳を仰ぐ水掛り村々の人々が相図って水神社を狩川八幡神社の宝物庫の付近に建て、次いで堰の北側に移ったようであります。

人々は北舘水神と崇めて春秋の祭祀を怠りませんでした。当時御神体として祀った公の木像は現在北舘神社に保存されております。

『北楯大堰史』によりますと大堰の竣工が七月二十一日でありその日は大学公はじめ一同狩川八幡宮に集まり大堰成就の奉祝祭典を施行いたしました。その記念に毎年七月二十一日を同社の例祭日として盛大に祭典を行う事といたしました。現在は旧暦七月の代りに現暦八月二十一日に行われております。

 

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