御由緒
御祭神 北舘大学助利長公
社 格 別表神社
創 建 安永七年(1778)
例大祭 五月一日
神 紋 丸に五三の桐
別 名 大学様
・概要
山形の城主出羽少将最上義光の家臣であった北舘大学利長公は、慶長六年(1601)に狩川城主に着任しました。その頃の当地城は茫然とした原野であり、水利にも恵まれず、人々の生活は困窮を極めていました。何とか村民の暮らしを豊かにするためにと、十年の歳月をかけて庄内平野の東部一帯の灌漑を計画、慶長十七年(1616)に灌漑水路を完成させました。この用水路は『北楯大堰』と呼ばれ、現在でも庄内平野の東部一帯の重要な水路となっています。その水の恵みは約五十ヘクタールを潤し、豊かな榖倉地帯を導きました。この流域には、たくさんの集落ができ、正に庄内平野の礎を築く北楯大堰となったのです。
利長公が没した寛永二年(1625)から百五十三年後の安永七年(1778)、この水路の恩恵を受けた人々達が、利長公の功績を称えて狩川八幡宮の境内に利長公を祀る祠を設け、「北舘水神社」と称しました。大正八年(1919)、社殿を楯山公園(狩川城跡)遷して大正五十年(1921)に「北舘神社」に改称。昭和三十六年(1961)に神社本庁別表神社に列格となりました。昭和四十八年(1973)現在の笠山に新社殿を御造営し鎮座。
昭和三十六年(1961)竣工の海上自衛隊の護衛艦「もがみ」には、当社の分霊が守護神として祀られていました。
平成二十四年(2012)北舘大堰開削四百年記念大祭斎行。
庄内平野を一望できる楯山公園(狩川城跡)には、北舘大学助利長公の銅像があり、庄内平野のいつも豊かな稔りと人々の幸せを見守っています。
御祭神
北舘大学助利長公
今からおよそ四百年前に山形城主最上義光の家臣であった北舘大学助利長公は狩川に赴任した時、この地の水利の悪さによる荒野に心を痛め、何とか村民の暮らしを豊かにするためにと、水利計画を立て義光公に水利事業の即刻の必要性を進言しました。
重臣達の反対もありましたが、義光公の強力な支援によりついに立谷沢川から水を引き入れ清川、狩川、余目以北までにも通ずる北楯大堰を完成させたのでした。
この大堰の流域には次々と集落ができ、現在の豊かな庄内平野の基ともなる大事業を成し遂げた利長公を流域の村民達が相図り、感謝の意を後々まで伝えるよう北舘水神社を建立しました。
現在は多くの崇敬者の皆様の熱意により、別表神社北舘神社として庄内町狩川笠山に鎮座して、毎年五穀豊穣の祈願祭と新穀感謝祭を斉行しております。
神社略歴と大学公の略歴